タイトル通り、映画「立候補」を東中野へ見に行ってきた。
海外のことは知らないが、日本の選挙では、地盤看板鞄を持たず、ほとんど票数を得られることなく落選していく人たちがいる。
マック赤坂や外山恒一、羽柴秀吉など、いわゆる「泡沫候補」と呼ばれる人たちだ。
選挙に立候補した誰もが、同じ供託金300万円を払う。彼らはほとんど当選の見込みがないにも関わらず(そして加えるならば一定の票数に達しなければその供託金を没収されるにも関わらず)、何故彼らは立候補し続けるのか。金持ちの道楽で片付けてしまえるような、そんな軽い行為なのか。その疑問によってこの映画は駆動されているのだと思う。

個人的に、彼らに対しては「なんだかよくわからんけどアタマオカシイやつが遊びでやってんだろ。世の中いろんなやつおるなあ。」ぐらいな感情を抱いていた。
つまり歯牙にもかけていなかったのだ。
だが、「立候補」を見て、それまでの自分の浅はかさと、いかに自分が行動をせずに生きてきたかについて、かなり根本的に反省しなければならないと思わされた。何かを見終わって、聞き終わって、涙が止まらないという経験は、恐らく人生で初めてのことだ。

映画の中で、大阪府知事選挙に立候補したマックが、彼の母校である京都の街中の道路で街頭演説をする場面がある。
マックは、交差点の中央まで一人で歩いていき、そこに台を置いて、いつものように踊る。
たくさんの車に無視され疎んじられてなお、彼はアピールを続けた。
一人で、そして彼の生身を晒して。
そのシーンの中で、車に乗っている人たちは、まさに自分だ、と思った。
何かに守られて、外形を固めて、更には流れ(空気)に身を任せておけば、どこかへたどり着けると信じ切っている。
どこかある目的地に自分の力でたどり着いたのだとさえ、思っている。
整備された道路、車の流れ、車という外形は、与えられたものであるにも関わらず。

対してマックはというと、流れや空気の一切から一旦離れてみよう、自分にできることはどこまでなのか、したいこととは何なのかを、あの場に居合わせた誰よりも真摯に見つめようとしていたと思う。
そこには、まず自分は「泡沫」なのだという自覚、そこで終わる諦めとしてではない、そこから始めるしかない事実としての自覚があった。

この部分は、高橋源一郎が非常に思いの丈を上手く表現してくれているので、引用したい。

 ラスト近く、総選挙投票前夜の秋葉原、マック赤坂は、安倍晋三の登場を待つ万余の群衆の前に現れる。そして、すさまじい罵声や「帰れ!」コールを浴びながら、たった一人で踊り続ける。その姿を見ながら、ぼくは気づいた。あそこで「ゴミ!」と群衆から罵倒されているのは、ぼくたち自身ではなかったろうか。
 ぼくたちは、この世界は変わるべきだと考える。だが、自らが選挙に出ようとは思わない。それは誰か他の人がやることだ、と思っているからだ。いや、もしどんな組織にも属さないぼくたちが選挙に出たら「泡沫」と呼ばれ、バカにされることを知っているからだ。そんなぼくたちの代わりに、彼らは選挙に出る。そして、侮蔑され、無視され、罵倒されるのである。

2013/06/29 朝日新聞 論壇時評 『ぼくらはみんな「泡沫」だ』より

羽柴秀吉は、負けるとわかっている選挙になぜ出続けるのですかという質問に対して、「宝くじと同じ、出なきゃ勝つも負けるもない」と答えた。
もちろん、選挙に出ることが直接的に人生の充実を担保してくれる、などと言いたいのではない。
勝つか負けるかという環境に身を置くことが肝要だ、というのでもない。
ただマックの姿を見せられた後では、この言葉はもはや通り一遍の人生訓以上の重みを持つ、ということだ。

最後に、彼らにおそらく欠かせないものの一つとしてある、「遊び」にも触れておきたい。
彼らは、日本はこのままではいけないと、おそらく真剣に憂慮している。そして自分がそれを変えるんだという強い意志も、持ち合わせている。
しかしそれだけでは、その「固さ」だけでは、立ち行かなくなることも、彼らはどこかで学んでいる。
マックは自らの政見放送を見て笑い、高橋は街頭演説中に小中の旧友と出会い、「これだから選挙はやめられない」と笑う。
一方で自信の信念、信条に頑なでありながら、それがまた同時に全てではないと、離れた地点から眺められるしなやかさ。
この視点の遠近の切り替えの早さ、そして射程の広さ。
これもまた「立候補」から改めて汲み取ったエッセンスであった。

終わり

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